納豆サンドイッチ〜食の世界は奥深い。

(注)9月18日に書いた記事。 

 

納豆のデモで印象に残っている試食メニューは、「キムチ納豆」の他には、「納豆サンドイッチ」がある。


これは、子どもに大受けした。
作り方は簡単。タレと辛子を加えた納豆、ツナ、マヨネーズ、そしてみじん切りしたタマネギと小口切りしたネギを混ぜてコネコネし、バターを薄く塗ったサンドイッチ用パンに挟むだけ(個人的な見解だが、好みでタマネギはカットしてもよいのではないかな)。
まあ、切るのがキッチン鋏を使ってもちょっと大変だし、食べる時、特に子どもはポロポロこぼすから、拭き取るためのウエットティシュとペーパーを常備しておかないといけないけれどネ。


それにしても、偶然。
キムチ納豆も納豆サンドイッチも、異国間の食材がガッチリとぶつかり、互いの個性を主張しあった結果、争いどころか反対に思いもかけぬ味のハーモニーを呼び込み、生まれたメニューだ。


この事実と、実際に口にした時の感動を取り上げれば、政治や軍事や思想や経済が絡む国と国との軋轢や介入が、いかにも愚かなことだと感じられてしまう。


食材でも、それぞれの個性を声高にではなくあくまで自然に主張するには、個々の食材が対等の立場でなければならない。つまり、互いにリスペクトし合っていないといけないのだ。


こう考えていくと、食の世界は、なかなかに奥深いものを持っている。

 

キムチ納豆から考える〜美味しいものに国境はない。

(注)9月18日に書いた記事。

 

納豆の宣伝販売は数限りなく担当してきた。
試食メニューも、定番の「納豆ご飯」をはじめ、「納豆そば」「納豆とツナのサンドイッチ」「納豆トースト」「納豆の手巻き寿司」の他、めかぶと和えた「めかぶ納豆」、味噌汁の中に入れる「納豆汁」(付属のタレと辛子は除く)、そして外してはいけない「キムチ納豆」など、さまざま。


キムチと納豆を混ぜ混ぜし、ごま油をたらしてネギとゴマを散らしただけの「キムチ納豆」(辛子はカット。タレも好みでカット)を、なぜ「外してはいけない」と、わざわざ強調する形で書くのか。
それは、このメニューが、根強い人気を誇っているからである。


食材こそ違え、キムチも納豆も、共に発酵食品。よって、思いのほかマッチする。
しかも、キムチのピリ辛が納豆によって、納豆の独特の匂いがキムチによって、それぞれ緩和され、食べやすくなるのだ。
プラス、キムチの腸をきれいにする食物繊維と納豆の肌に張りを与える植物性タンパク質がガッチリと手を結ぶ、健康食品にして美容食品。
年齢や性別を超えて受けないはずがないわ。


このキムチ納豆を考案したのは、誰だろう?
私が結婚した1980年代前半は、どちらもまだマニアックな存在で、一般には現在ほど広く食べられていなかった。


もっともキムチの方は、88年のソウル五輪を契機に、けっこう普及した気がする。
同時に、納豆はもちろん、豆腐や厚揚げ、うどんその他、和の食材とのコラボも。


なお!
意外だと思われるかも知れないけれど、キムチは、同じく発酵食品のプレーン・ヨーグルトともよく合う。
このことを教えてくれたのは、舞鶴市駅前のスーパーに某社のプレーン・ヨーグルトの宣伝販売で行った時に会ったお客さん(男性)。
「うちの家は、キムチの残った汁にプレーン・ヨーグルトを混ぜ込み、ソース作るねん。これをさっと茹でたり軽く炒めた豚肉の上にかけて食べる。メッチャ美味しいで。おねえさん(私のこと)、試してみなはれ」。


ハイ。
試しました。
お客さんがおっしゃる通り。


ついでに。
通常なら捨てる汁をこうして活かすことが出来た。
ここいらも、節約志向の主婦にはありがたかったね。


美味しく感じるものに、生育歴の違いからくる国境はあれど、、、いや、究極的に考えたら、ないわ。
絶対にない。


だって、美味しいものを食べたら、みんな幸せになるでしょう?
ここがポイント。
その土地、その階層、その年代。
それぞれに応じてアレンジしたらいいのよ。

 

味噌汁にマヨネーズ

(注)9月17日に書いた記事。

 

「息子の嫁さん、味噌汁にマヨネーズ入れんねん」
初対面で、同業者ではあっても登録派遣元は別の私にそんな内輪のことを彼女が話したのは、きっと私が雑談の中で、
「どんなにしんどい時でも味噌汁を飲むと私は元気が出る」
と、明かしたからだろう。
コロナ禍で試食販売の仕事がほぼ無くなる直前の話である。 


彼女が語るところによると、息子さんのお嫁さんは、なかなかの料理上手ながら、外国人なので日本人とちょっと味覚が違うのかも知れないと。


「お嫁さんが作るその味噌汁、美味しいんですか?」
私は尋ねた。
「味噌とマヨネーズは合いますから、ソースにするには頷けるんですが、汁となると、、、」 
彼女は答えた。
「それが、味自体はけっこうイケる。ただ、味噌汁の表面にマヨネーズの油分が浮かぶから、見た目で受け付けへん人もいるやろね」


彼女は
「こういう思いつきは外国人ならではかも」
と続けた。
「何でも、私たち日本人が味噌汁として飲んでいる味噌汁は、嫁さんが育った国の人にはあっさりし過ぎてコクが足りないと感じるみたいで。マヨネーズを加えたらちょうどよくなると話して」


ふうむ、、、。
味噌汁にマヨネーズねえ、、、。
私はまだ試したことはないが。


考えてみれば、今や国民食となっているカレーも、ナンではなく炊いた米の上にかけることにより、カレーの故郷インドのそれとは異なって異国の日本で発展してきた。
現在では、北海道から沖縄までのそこかしこに、その地ならではの食材をいかした「ご当地カレー」もあふれている。


これは、ひとえに、カレーが元々はアチラなものだったからではなかろうか。
「アチラなもの」だったからこそ、本場ならではのこだわりやプライドがない自由な発想で、味なり個性なりを追求出来たのだ、、、味噌汁にマヨネーズを入れた、仕事仲間のお嫁さんのように。


外国の人からみた日本の大衆食。
これは参考にしてよかろう。
「これはこうでなければならぬ」
という、思い込みに発展しかねない固定概念から抜け出すきっかけになるかも知れない。

思い込み〜だしで洋風スープ。

(注)9月15日に書いた記事。

 

白だしをはじめとする液体だしの宣伝販売は、数え切れないほど担当してきた。
その中で、忘れられないデモが1つ。
キャベツとベーコンをメイン具材に作ったスープを試食として提供し
「液体だしは和食料理に使うイメージが強いけれど、実は洋食にも使えるんだよ」
とアピールしたデモである。


このメニューは好評で、用意したレシピカードがたちまち無くなった。
プラスの感想を寄せてくれたのは、主に30代から40代とおぼしき主婦。
「これなら、パンにもパスタにも合う」
「手間がかからないし、コンソメよりもあっさりした味」
「野菜がたっぷりとれてヘルシー」。


デモを実施したスーパーの中にある飲食店でパートをしていると語った女性は私に言った。
「だしで洋風スープが出来るなんて知らなかった。思い込みってすごいね」。


そう、人間、思い込み、すなわち固定観念にとらわれると、そこから抜け出すのは極めて難しい。
それは、なぜ?


次回で記事にする、息子さんの外国人妻が作ったマヨネーズ味噌汁に回答のヒントがあるかも知れない。

だしのお話〜丁寧にとっただしは1番も2番もおいしい。

(注)9月14日に書いた記事。

 

振り返れば、デモンストレーター初仕事は、17年前の白だしを使ったお吸い物だった。


このデモを通じ、私は、粉末やパックタイプのだしは使ったことがあっても昆布なり鰹なりでイチからだしをとったことがない人がけっこういることを知ったのだ。
うーん? 私が結婚した1980年代前半にも市販だしを使う人はいたが、まだまだ最初からだしをとる人も多かったね。


もっとも、(だしをとる人が減った)そのおかげで、当日の白だしの売上が上々だったのだろうけれど。
だって、白だしなら、それをお湯で薄めて具を浮かばせたらお吸い物が
「ハイ出来上がり」
だもんね。

 

まあ、忙しい時は確かにメンドイわなあ、、、だしをとるのは。
でも、時間がある時はやってみて欲しい。
正直、絶品ものでございますよ、1番だしの香ばしさまろやかさは。
そのまま飲めるほどだから、味付けが塩オンリーのお吸い物レシピが存在することにも納得できる。

 

で、この1番だしをとった後に少し鰹を足してとる2番だしもまた感動的な美味しさ。


そう言えば、リーフスタイルのお茶が売れなくなったのは、茶葉でいれたお茶がどんなに風味豊かなものかを知っている人が減ったからだ、と書いてある記事を読んだことがある。
だしも、もしかして、そうなる?

 

としをとると「美味しいものを少しだけ」がベストになる。

(注)9月13日に書いた記事。

 

しばらくブログをお休みしていた。


もう眠くて。いくら睡眠をとっても、眠くて眠くて仕方がなかった。スペースがあれば横になりたく、それをイメージするだけで瞼が落ちてくるのだ。
かつての我が家にいたキジトラ猫は、晩年はほとんど寝ていたが、今更ながらあの気持ちがわかった気がする。


さて。
先週の木曜日に大学病院にいて、気づいたことが1つ。
超高齢層とされる80代半ばから90代以降の患者さんが、押し並べて痩せていたことだ。
それも、干物みたいに。


「一般に、太っていたら長生きしないと言われている。平均寿命以上に生きているその人たちが痩せているのは、当然なんじゃないの」
とおっしゃるあなた。
確かにその通りだろう。


同時にこうも言えないか。
「加齢と共に、食に対する興味や欲望はあってもカラダがこたえてくれない。つまり、食べられなくなった」
結果、痩せてきたのだと。


我がケースを振り返っても、ここ数年、食べる量が減ってきた。
例えば素麺だ。1食につき2束が適量だったのに、現在では1束。
食パンもしかり。1枚は多すぎる。あの半分でよいので、この頃は食パンではなくロールパンを買うようになった。


ただ、痩せてきたかと問われたら、、、うーん、微妙なところだな。確かに、4月に「アルコールはオッケイ。1日30分のウォーキングと食事量を今までの75%に」のゆるダイエットをスタートさせて5ヶ月後の現在、50キロは47キロになったけれど、これは元来の私(常に45〜46キロだった)に戻りつつあるというだけ。


食べたくても食べられなくなる。
これも加齢現象の1つだと知った現在、かつてJR草津駅から現場の店舗まで私を運んでくれたタクシードライバー
「私くらいの年齢(見た目60代)になりますとね、美味しいもの好きなものを少しだけ食べる。このスタイルがベストなんですよ」
の言葉が身に染みるのである。

 

大学病院の待合室でつらつらと感じたこと。

(注)9月10日に書いた記事。

 

昨日は大学病院へ。
ざっと1年ぶり。


天然のズボラさから、症状が出なくなったことを幸いに(いわゆる寛解)、治療にも関心を持たなくなり、そのうち検査日を忘れてしまった。
勤務で言えば無断欠勤。
病院にも、そりゃ行きにくくなる。


そうこうしているうちに、家の階段から落ちて骨折し、入院先では骨折そのものより血圧その他の内科的症状をさんざん指摘され、やっと真面目に(?)治療に取り組む気になったのだ。


内科の方は近所で見つけたけれど、眼科の方は病名が病名だけに、町のお医者さんで、というわけにはいかない。


まあ、
「この世におこるすべてのことは自分にもおこる可能性がある」
ことを認めた上で(そう! コロナだって自分も感染する可能性は大いにあるのだ)、当たり前のことを当たり前にやって暮らしていくしかないね。