メル友の1人は、小学校5年生の時に、文学好きの母親の本棚から三島由紀夫全集を引っ張り出し、そこに収録されていた「美徳のよろめき」を読んだとか。
「えーっ、わかったの?」
と驚く私に、彼女は
「ストーリーだけはね」
と軽くかわした。
彼女いわく、美徳のよろめき世界を平たく俗っぽくすれば、婦人雑誌に載っている読者手記と同じようなものである。小学校も高学年になれば、ああいうのは細かい部分はわからなくても大筋は何となくわかる。
確かにねえ、、、。
「美徳のよろめき」に話を戻せば、登場人物の心理のひだや三島ならではの華麗な描写や、何より三島美学など全然わからなくても(そういうのは後々わかってくる)、ローティーンの女の子でもストーリーを追うことは出来るのだ。
この「ストーリーがわかる」ということは実はとても大切なことで、少年少女にも理解できるストーリーを考えたそのこと自体が、三島由紀夫の「オハナシの作り手」としての力量が際立っている証拠。
東西古今を問わず、名作のストーリーって、一部を除けば、基本的にはシンプルなものよ。
オハナシに限ったことではない。
企業が新製品を開発したり、店が売上を伸ばすための計画を立てたり、美容院が新規客を増やすべく宣伝に力を入れたり、また人がマイホームを購入して家庭を営むのも、まずは「ストーリーありき」。
「ストーリー」がシャンといていれば、個々のシチュエーションに応じたプロットも自然と組み立てられるし、細かい点は後からついてくる。
まあ、コロナ禍もあり、企業も個人もストーリーをえがきにくくなっているのが現実だけれど、、、それでも物事をストーリーとしてとらえその中での自分の配役を意識しているのといないのとでは、日々の暮らしがまるで違ってくるだろうし、万が一の場合のストーリー変更もしやすいのではないかな。
なお、長期的なストーリーが描けない時は、取り敢えず1日だけのストーリーをイメージしてみたら、これだけでも変わってくると思うよ。
写真は、一番下の孫。