「私の人生、ドブ川みたいなもの」と彼女は言った。

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(注)1月13日に書いた記事。

 

デモンストレーターの仕事に就いて数年経った頃。某大型量販店で、1人の同業者と知り合った。
デモ場所が向かい合わせの上、パッと見の年齢も同じくらいだったことから互いに親しみを感じたのだ。
彼女とは昼休憩を共に取り、ついでに帰り道も途中まで同伴。合算して2時間近くも話をした。


その彼女。何かの話題の折、私にこう言った。
「これまで私が歩んできた道なんて、ドブ川みたいなもんよ。ゴミやら廃油やら排泄物やら小動物の死体やらが、泥と溶け合った土色の半液体の上を、悪臭を漂わせながら、プカプカと流れて行く」。


私は驚きを超えて衝撃を受けた。私自身は、自らの軌跡をドブ川に例えるなんて一度もなかったどころか、思いついたことすら皆無だったからだ。


そりゃ、ありましたよ、生活のためダブルワークやトリプルワーク、たまにクアトロワークをしなければならず、疲労からメンタル面もやられ、時に衝動的な気分にかられることは。
とは言え、それはあくまで一過性のものだし、ぶちまければそのような状況に陥っても私の心にドブ川は決して流れなかった。
裏返せば、いかに私が苦労知らずなノホホンとした人生を送ってきたか、そのことの証明である。


もっとも、彼女と話して十数年の年月を経た今日では、彼女は別の意味合いで「人生ドブ川論」を口にしたのかも知れない、とも想う。
彼女の言葉を借りれば、「ゴミやら廃油やら排泄物やら小動物の死体やらが、泥と溶け合った土色の半液体の上をプカプカと流れる」現実のドブ川にも、ごく稀に落とされたか訳あって捨てられたかした年代物の人形や玩具とか高級な着物とかゴージャスな花束が流れてくるように、心のドブ川にも暗鬱で陰惨な出来事ばかりでなく爽やかで明るい体験も流れてくるはずで、要は
「それだから人生」
と、彼女は言いたかったのだと推察出来ないこともない。
実際、「人生ドブ川論」を口にした時の彼女は、決して悲壮な面持ちではなく、ある種諦観したみたいな虚無感が漂っていた。


「人生ドブ川論」を唱える人と、そんな発想すら浮かばない人。
この差はいったいどこから?
持って生まれた性格? 家庭環境? 生育歴? 
いずれもが関与していることだろうが、1番重要な要素は、その人を根本面でかたどる「核」なのではないか。


この「核」について、次回で考えてみたい。


本当にこの宣伝販売という仕事。人間観察はもちろん、個々の人間が持つ闇や光についても教えてくれる、素晴らしい職業だ。


写真は、大阪南部にある某川で遊ぶ孫たち。
むろん、こちらはドブ川ではない。