右脳分野は国境を超えられるのに左脳分野は超えられないのは?

(注)9月20日に書いた記事。

 

一昨日の記事にも書いた。10年ほど前、舞鶴(京都府)でプレーンヨーグルトの宣伝販売を担当した時、お客さんの1人に、キムチの残り汁にプレーンヨーグルトを混ぜ込んで作る(好みで醤油や味噌を足してもOK)「キムチヨーグルトソース」を教わったこと。
「さっとゆがいたり焼いた肉にかけると、メチャ美味しいで」
との言葉と共に。


キムチと納豆を和えた「キムチ納豆」が食材を通じての韓国と日本の握手なら、「キムチヨーグルトソース」は、やはり食材を通じての韓国とブルガリアのコンビ。もし隠し味として醤油や味噌を使うなら、日本をも加わった食トリオだわ。


これは音楽でも同じ。ジャズやロックで、元は一部の国だけで演奏されていた、いわゆる民族楽器が加わって新しいサウンドが生まれたケースは枚挙にいとまがないし、保守的とされるクラッシック音楽だって、作曲家が異国の音楽に惹かれてその旋律や作風を自作に取り込んで応用した曲はたくさんある。
絵画もそうだね。有名どころでは、あのゴッホは日本の浮世絵に多大な影響を受けた。


こんなふうに、味覚とか聴覚とか視覚とか、右脳が働く分野では、人間はいとも素直に国境を超え、争いどころか互いに共鳴し合って新しいものを生み出すことが出来るのに、政治やら経済やら思想など、左脳が働く分野では、どうしてそうならないの?
むしろ、国と国が接する際に諸々の利害やプライドが絡んできて、軋む場合が少なくないよね。


「理」(=左脳)を基本にした政府間だけの外交では解決されないこと、たくさんあると思う。だから、「情」(=右脳)に訴えるタイプの、主に民間による外交も必要なのだ。
このためにも、コロナがおさまって、また食べ歩きやコンサートや展覧会を楽しめる社会にならないといけない。