時には、「感情あらわにすること」も大切。

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定説として、
「リーダーは感情をあらわにしてはいけない」
ということになっている。常に冷静かつ公平。理屈では、まあ、わからないこともないんだが、、、。

 

アメリカの作家ウィリアム・ケリーが書いた小説に「救われた魂」と題打った短編がある(短編集「ぼくのために泣け」に収録)。
問題をおこした、あるいはその可能性がある子どもたちを指導する仕事に就いた若者ピーターが主人公で、ストーリーは、彼と特に問題児であったマンスとの交流をえがいている。

 

子どもたちの教室を任されるとすぐに、ピーターはそれが困難な仕事だと知る。
ましてマンスは何度も教室を逃げ出すし、他の生徒たちとも打ち解けようとはしない。
ある時、絵を描くのを嫌って校外に出て行ったマンスを追いかけてきたピーターに、マンスは尋ねる。
「あんた、大学に行ってたんだろ? 大学で喧嘩をしたことがあるかい?」
ピーターは答える。
「喧嘩なんかしないよ」
「じゃ、大学なんてろくでもねえところなんだな」。
マンスは、その後、おとなしくなったかのように見えたのだが、かたくなな態度は相変わらず。

 

ある日、子どもたちに運動場でバスケットボールをさせている時、事件はおこった。
地元の不良どもが、子どもたちのあまりにもお粗末なプレイぶりをからかい、ボールを取り上げたのだ。
返してくれと、ボールを持つ不良になぐりかかった子どもの1人に、不良はパンチをくらわせ、子どもは地面に倒れてしまった。
カッとなったピーターは、不良に飛びかかり、痛烈な不意打ちを。
「どうしてあの子をなぐった? ふざけるなら、よそでやれ!」

 

学校の自室に帰ってきて、我を取り戻したピーターは、後悔にとらわれる。
自分は生徒たちのお手本になろうとつとめてきた。彼らの喧嘩っ早い親兄弟とは違う人間もいるのだということを教えて
やりたかった。なのに、、、。

 

ところが、玄関のドアを開けると、そこにマンスがいて、話しかけてきた。
「大学って、喧嘩の仕方を教えてくれるの?」
教えないよと返したピーターに、マンスはさらに聞き込む。
「じゃ、先生は、喧嘩、どこで習ったんだい?」
「さあな。親父にでも習ったのかな」
「親父さんは何しているの?」
「医者だ」
「医者って喧嘩するかなあ?」
「誰だって、時には喧嘩くらいするさ」
「じゃ、おれとおんなじだ」。
会話をしながら、2人はいつのまにかバス停留所まで歩いてきていた。

 

バスに乗ったピーターが窓をのぞくと、マンスがはにかむように手を振っているのが見えた。きっと、さよならと言っているのだろう。
マンスは、「感情をあらわにすること」で自分と同じ位置に降りてきたピーターに、ついに心を開いたのだ。

 

教育もビジネスも、結局は人間がやること。人間が人間を動かし、逆に動かされる。
ならば、状況によっては「感情をあらわにすること=弱さやいたらなさも含めたその人自身をあらわすこと」も大切なのではないかな。

 

(注)短編のあらすじを紹介した文中のセリフは、浜本武雄氏の翻訳を元にしました。