たとえ商品を介したものであっても

 連続勤務最終日の昨日は、近場のビブレ北大路店。
 前日にグリル鍋と二つのポットを持って移動したせいか、一昨日の夜から
腰が痛み始め、まさに爆弾を抱える感じで現場に立った。
 ほんの少し中腰になってもじわーっと痛みが広がる。
 当然ながら、こういうことは、表に出してはいけない。
 笑顔。笑顔。どこまでも笑顔。

 担当はカゴメのおなじみのラブレと新商品のネクター二種類。
 どちらもよく売れた。

 お客様の一人、八十代半ばかもう少しいっているかなと思われる女性は、
杖をついて買い物をされていて
「重いものは、私、もうよう持たんのよ」
 とおっしゃりながらも、ネクター
「まあ、せっかくよばれたんやから(試飲させてもらったのだから)」
 と、五個も買って下さった。
 なぜ五個なのかというと
「どちらも二つずつでは四になる。四は縁起が悪い」
 からなのだそう。

 けっこういらっしゃるのよね、高年の一人暮らしの方で試食品を提供する
こちらに遠慮して義理で商品を買って下さる方。
 こういう方は、商品もさることながら、商品を介してではあるけれど
「自分の話相手をしてもらったから」
 との「精神的満足」をも購入しておられるのだ。

 数年前に大丸ピーコック武庫之荘店で「松前屋昆布つゆ」をデモした時に
も、そんなお客様がいた。
 
 お客様は八十代初めの一人暮らし。加齢で足腰が弱くなり、買い物も毎日
は行けなくなった。
 先だって、サンマの塩焼きがどうしても食べたくなり、当日にやって来た
ヘルパーさんにお願いしたところ、まだ三十歳も過ぎていないであろうその
ヘルパーのお姉さんは
「えええっ。お魚なんて、私、さわったこともありません。もちろん、食べ
たことも。出来ません」
 と返された。
 そこで、お客様は
「自分で焼くからサンマを買ってきて」
 と頼むと、
「サンマって、あの、どんなお魚ですかぁ?」。
 お客様は心底がっかりし、今日こうしてサンマを買うためわざわざ店に出
向いたとか。
 
 愚痴を聞いてくれたお礼として、お客様は、私が販売していた、特価で
1リットル798円もする老舗の昆布屋のつゆをポンと購入して下さった。
 美味でも、八十代の一人暮らしには、あの量は多過ぎると想うが。

 一般的なケースとして、人は歳と共に孤独になる。
 特に仕事にしろ主婦業にしろ現役を退き、配偶者に先立たれると、なおさ
ら。
「おじいちゃん、おばあちゃん」
 と孫が寄ってくるのも、せいぜい彼らが小学生のうちまでだ。
 趣味も、身体の自由がきかなくなるにつれ、思うにまかせなくなる(短歌や
俳句など、自身のイマジネーションと鉛筆だけで可能なものもあるが)。 
 おまけに、同世代の親戚や友人知人の中には鬼籍に入った人も少なくない。
 こうなると、商売や社交上の「親切」も、嬉しく感じられるのだ。

 内に様々なものを秘めつつも表には出さず(出せず)、敢えて笑顔を浮かべ、
人生という名のステージで与えられた役を演じているのは、私たちだけでは
ない。お客様も同じである。

 このことに気付き合い、共鳴し合った時、交流が生まれる。
 それが商品を介したものではあっても、素晴らしいことではないか。