黒眼鏡の男

 私がマネキン業に就いて最初の一、二年のあいだ。大阪北部のスーパーやデパートでデモをすると、
決まってただ食い目的で何度も寄ってくる男がいた。俗に言う試食魔である。
 
 黒眼鏡をかけているため、正確な風貌や年齢は今ひとつわからない。
 特徴は、カートに必ずバイクのヘルメットを入れていることと、パンであろうが鍋物であろうがハム
であろうがコーヒーであろうが、試食場所に近づいて来たら最後、きれいに食べ尽くされてしまうこと
だ。

 バイクのヘルメットを持っているのだから、住所不定のホームレスさんではないだろう。
 それにしては、服装は汚い。
 袖口はすり切れ、衿元は垢でテカテカ。
 店の人によると、男は近辺では有名な存在で、毎日バイクに乗って自宅一円のスーパーを巡回。試食
をしてまわることを「仕事」としていると言う。

 ある時、某ハム会社の専属マネキンのおばちゃんが、見かねて男に注意したそうな。
「あんた、エエ加減にしいや。私ら、慈善事業してんのとちゃうねんで。エエ大人がそんなこともわか
らんのかいな」
 男は無言でうつむいた。
 おばちゃんは、男の顔を覗き込み、尋ねた。
「あんた、トシ、いくつや?」
「43」
 男はボソリと答えた。
「まだ若いがな」
 おばちゃんは一喝した。
「そんなトシで、その気になったら仕事はあるのに、こんなことをしたらあかん。まともに働きっ」
 男はまた押し黙った。

 いま、どうしているのだろう。
 たぶん心に病を患っていたのだと想うが、それでも、人に忌み嫌われ、時に怒鳴られながらも、外に
「一人で」出ていたのだからね。
 適切なケアが出来れば、どうにか社会に適応する可能性はある。

 面白い人がいるものだ。