かなり楽になった。
連続勤務の後、一日だけ休みというのは、もうきついわ。
17日連続で現場に立ったこともあるし、四ヶ月間ただの一日も休み無しで働いたこともあるけれど、
それは、まあ、娘が独り立ちしていなかったからこそ出来たハナレワザ。
湖北の長浜から十時過ぎに帰宅し、翌日は片道四時間以上かけて城崎へ。四時に起き、タクシーで
二条に向かい、始発に乗った。
終電で帰った翌日には、大阪の茨木へ。
あの頃は気を張っていた。
城崎は江原で下車。大雪で、腰まで雪に埋まりながら、現場の店に向かった。
このもようを、ヨークシャーに住むレイモンドに送ったら、すぐに返事がきた。
レイモンド。娘が高校二年生だったから、八年前になるかな。
来日した彼といっしょに豆腐料理を食べに出かけた。
ジョージ・ルーカスによく似た、小柄(白人にしては)なおっちゃんだった。
義父が亡くなった時も、すぐに追悼の電話をかけてきてくれたっけ。
でもね、この仕事を始めて、国は問わず、切れてしまったメールフレンドは多い。
くたくたになるのよ。
七時間か八時間は立ち通しで、移動の時間もある。
片道三時間以上かかる現場に赴いた時は、精魂尽き果てる感じ。
メールに返信したくても出来ないのよね。
日本語でもきついと感じるのに、よその国の言葉となるとなおさら。
ここのところをわかってくれたオーストラリアのニッキーとは、未だ続いているのだけれど。
もっとも、これは、ニッキー自身の人生体験が大きい。
「メールが来ないなあ」
と思い、切れたかなとあきらめていたら、一昨年前、突然新年メールが届いた。
彼女、私と大阪で会った後に離婚し、香港に渡り、そこで再婚したのだ。
三月に東京で会ったミュージシャンの友人も同じ。
何年も音信不通の時代があったが、けっきょく、続いたし、顔も会わせたよ。
レイモンドとも、こんなように、もう一度コンタクトを持ちたいね。
でも、過去は過去だし、うーん、わからない。