もう一度

仕事仲間からメールが続々とどいている。

「仕事がない。普通なら十月は平和堂の特別招待会もあり、ぎっしりなのに。あなたはどう?」。

 同じだよ。
 今日、昨年の手帳をみていて気づいたけれど、今年は十月の仕事が異様に少ない。

 不況の影響で、マネキンを入れて宣伝販売をしても一時のように売れないから、メーカーも自粛して
いるのだろう。

 じたばたしても、どうなるもんでなし。

 これを機会に、自分の仕事を見直し、自分なりの落とし前をつける準備に入ろうと思う。

 もう文章教室なんぞには二度と行かない。
 感動は文章テクニックが与えるのではない。
 読者との距離感だ。
 ここいらのことが、文章のプロとされる方にはわかっていないみたい。

 振り返れば、「イン・ア・コイル」という四百字詰め原稿用紙にして三百枚ほどの小説を、とある
「作家のなりそこない」の評論家に酷評されて以来、私は技術にこだわるようになった。
 この小説。私は絶対の自信があり、コンクールでもいいところまでいったのに、落ちた。
「どうして?」
 と思い、このセンセに添削してもらった結果が、ボロカスにけなされたってわけさ。

 文体が拙劣。
 中身が薄い。
 しょせんは少女漫画の延長。

 しかーし、この程度のことで落ち込む私も私だ。
 オノヨーコみたいな心臓を持っていないといけない。
 率直に言うが、ヨーコは音楽的実力はゼロよ。完全に夫の七光り。
 彼女が目のかたきにしたリンダ・マッカートニーも同じ。
「フン。作家になれなかったあんたに、かくもえらそーに人の作品を批評する権利があるのかね?」
 と、逆に問い返すぐらいでなければ。

 そもそもヒョーロンカって、何なの?
 文学だけでなく、美術にしろ、音楽にしろ、人が血反吐を吐く思いで制作したものにケチをつけ
る。そういう存在ではないの?
 ヒョーロンカって、芸術家になりたくてなれなかった人が多いと、聞いたことがある。

 話は元に戻り、これだけコテンパシンに叩かれても、書くことがあきらめきれず、やけくそ半分に夢を追い続け、今年になってようやく超ローカルながら文学賞を二つもらった。

 嬉しかったね。

 もっとも、真情を明かせば、もはや賞はいらない。
 本が売れなくなっている現在、作家をめざす気もない。
 ただ、一冊、私にしか書けない文を残したい。

 こう思うようになったのも、繰り返すけれど、ジャズ・ピアニストの南博のエッセイを読んだお
かげ。
 あのエッセイ。文章はめちゃくちゃ。でも、自己体験に基づいたリアリティと、それゆえの共感
がある。著者と読者の距離がメチャ近いのだ。

 マネキン体験記は、数年前に出版化の話があったんだけれど、いろいろな事情で流れてしまった。
 もう一度、との思いがよぎる。

 実現するかどうかは、別として。

 テクニックを超えた部分で、私にしか書けない文章がきっとあるはず。