人は人が集まる場所に集まる

先週末は、京都市内の某大型店でデモ。魚介類をトマトと水で煮込むイタリア料理、アクアパッツァ(Acqua Pazza)を試食提供することで、味付きトマトソースを売り込むのがメイン業務だった。

さすがは、我々の間で「試食数だけなら関西地方の量販店の中でビッグ10に入る」とされている店舗ではある。
試食提供一回につき、およそ大人四人分の量(試食カップ50から60個分)を作るのだが、それがたったの20分足らずでなくなってしまう。

試食していくお客様に年齢や性別の偏りは全くない。デモ場所を通る人の過半数は、こちらが「いかがですか?」とすすめなくても、自らカップを取り、喉に流し込んでいく。
思わず、一部のお客様ではあるけれど、「そんなに慌てて食べると舌が火傷しますよ」と声をかけたくなるくらい。

こういう場面に出くわすたび、あらためて痛感するのね。
「人は人が集まる場所に集まる」。
シンプルにしてリアルな事実。

その昔。ある事件で日本中が大騒ぎしていた時、容疑者の一人に浮上した男性が、マスコミの取材にこうこたえていた。
「カネってのはね、寂しがり屋なんですよ。だから、(カネが)あるところに集まるんですよ」。
なるほどと、単純に思った。
同時に、「もしかして、人間にもそんな一面があるのかも知れない」と。

よく「行列が出来るラーメン屋」だとか、「予約がなかなかとれないレストラン」だとか、話題になるよね。
あれって、果たして、そのラーメン屋なりレストランなりに対する好奇心だけで生じる現象なのかしら? 
そこには、大勢の人と同じ空間または体験を共有したいという、ある種の「孤独への恐れ」はないのかしら?
この世で生きていく限り、大多数の人には「つながり」が必要なはずだからね、、、表面的ではあっても、とりあえずは。

こんなふうに考えると、試食する人が集まっているデモ場所にますます大勢の人が集まり、我も我もと試食を求める情景は、人間の心のひだの一断面をもあらわしているようだ。