登山に、仕事を、人生を、重ねる。

昨日、今週になって二度目の大文字山登山。
急勾配の山道を、転ばないよう一歩一歩踏みしめながら登る過程は、ある地点までは非常に辛いものだが、それを過ぎると高揚感すら伴うハッピー感覚となり、全身を支配する。
俗に言うクライマーズ・ハイ

それはともかく、私が山登りに凝り始めたきっかけは、全くのハプニングによるものだ。
8年前。引っ越したばかりの京都市山科から、徒歩で観光名物の一つである南禅寺に抜けられる手頃なコースがあると知人に聞き、教えられた通りに山科の毘沙門堂横の道に入ったところ、どこで道を間違えたのか。矢印の方向に進んで行ったら、どんどん山中に入り、結果的に大文字山に登ってしまったのだ。
あの時の肉体的な苦しさ。ハアハア、ヒイヒイ、ゼイゼイ。胸の動悸は激しさを増し、口からは心臓が飛び出しそう。
途中で、さすがに鈍い私も気付いた。
「こりゃ、南禅寺に抜ける道じゃないぞ。矢印の後には大文字山と書いてあるしな。でも、何とかここまで来たんだ。引き返すのは悔しい。矢印が導く通りにこのまま進んでやろうじゃないの!」。
そして、登り切ったとたん、開けた視界。
京のまち、そして隣り合わせた滋賀県のまちが眼下に。
「わーっ!」
驚きで目がくらくら。
全身にかいた汗が山上の風に心地よく、あれほど波打ち高鳴っていた胸は、達成感でいっぱい。
山登りの魅力にハマってしまった瞬間だった。

頂上で出会った人たちと雑談。
「どちらのルートから?」
「えっ? あの山科の毘沙門堂の横にあった道から」
「あのルート、かなりきついでしょ。大文字山には何度も登っておられるの?」
「いえ、今回が初めてです」。

話しながら、私は、頂きまで登ることが出来た喜びの反面、ゾォッとしてもいた。
登っていて、頂上らしい地が頭上に見えてくるまで、私は人間に全く会わなかった。空と木と土との中、私は完全に一人だったのだ。
ならば、登っている途中で体力が続かなくなっていたら? 何かの原因で捻挫していたら? そもそも山場のこと、落石とか土砂崩れがあったら?

「安全面を考えたら、道を間違えた時点で引き返すべきだったな」。
わかりつつも、私の頭には
「今回は運が良かったのだ」
との考えは浮かんでこなかった。
ただただこう思うばかりだった。
「(肉体的な)苦しさに耐え、登り切れた。だから、こんなに素晴らしい景色を眺めることが出来た。また登ろう!」。

この一件を、仕事に、人生に置き換えたらどうか?
物事が進行する過程においては、勇気と馬力とほんの少しの向こう気のなさとで前に行かないといけない時と、これまた勇気と思い切りと痛みで後に引かなければならない時もある。
その判断基準は?

ただこれだけは確か。
常に安全策を取っていては、新しいナニカは絶対に見つからない。