下流老人

台風一過。明日からまた連続勤務。

昨日の「75歳で逝きたい」投稿についての補足。
このような思いに特に囚われる日は、仕事がら、いわゆる「下流老人」にたくさん会ってしまった日である(店舗や地域によっては、下流老人は決して珍しくない)。
本当に衝撃的。
見かけがそうなのではない。
立ち居振る舞いというか、言動がショッキングなのだ。
経済的な貧しさは精神的な貧しさにつながるケースもあるのだ、ということを、まざまざと感じさせる。

もちろん、「ああはなりなくない」と、強く思う。
が、いちばん思っているのは、当の彼らではないか。
誰が好き好んで「下流」を望むだろう。

世間には、「貧しさは自己責任」と断言してはばからない人が、少なからぬ存在する。
「若い頃からちゃんと計画を立て、真面目に働いて、地に足をつけた暮らしをしていたら、誰しも相応の生活が成り立つはず。それが叶わないのは、本人の怠慢であり、軽率だった過去のツケだ」というわけだ。
私も、経歴を話したら、そんなふうにとらえられるだろうな。

人ごととは思えない「下流老人」。
その一歩手前にいる人たちに、一部のファイナルシャルプランナーは、こうアドバイスする。
「なるべく長く、そして、多く働きましょう。ひと月に20日働いて生活が賄えなければひと月に25日働く、1日に8時間働いてやっていけないなら9時間働きましょう」。
このセリフ。老人が置かれている現実を少しでもわかっていたなら、まず出てこない。知っているの? 体力は加齢と共に否が応でも落ちていく。長く多く働きたくても、身体がいうことをきかなくなるんだよ!

例えが飛躍し過ぎるけれど、50歳まで、洗うがごとく赤貧に苦しめられていた文豪のドストエフスキー(人気作家ではあったものの、賭博と恋人との逃避行などに浪費し、常に借金に苦しめられていた。有名な「罪と罰」は債権者の追及を避けて外国に逃げて書かれたほどだ)は、晩年の10年だけは金の心配をしなくてよい生活を送れたそうな(再婚した夫人のおかげがかなりあるみたいだけれとね)。
死ぬ前の10年。せめて心穏やかに過ごしたいものだね。