東南アジアのファブリックは日本の風景にマッチするとは限らない。

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さて、強いストレスから書く気力もそがれ、しばらく休んでいた「キャッシュレス」関連の話題を続けるよ。

 

5年前に訪れた、カンボジアシェムリアップの、「粘り」に加えて「ワタシ、カワイソウ」テクをも備えた「販売員のプロ」の手中に落ち、心ならずも(?)民芸ファブリックとそれ風な図柄をあしらったポシェットなどの小物を多数買ってしまった夫。

 

ホテルに帰り、あらためてベッドの上にそれぞれ広げてみると、確かに美しい。
色合いといい、図形化したイラストの配置加減といい、メリハリがあって動的。表現に語弊があるかも知れないが、眺めていると、どこからか音楽が聴こえてくるような錯覚さえ受けるのだ。
図柄にリズムがあるんだね、、、ちょうどゴッホやスーラ、クレーの絵が「独自の動き」を備えているように。

 

「これは、、、案外ともうけもんかも知れんぞ」
と夫。
「チョイ強引に買わされたけれど、テキスタイルとしては決して悪くない」。
テキスタイルデザイナーを30年続けてきた夫が言うのだから、間違いはないだろう。

 

ところがである。
このテキスタイルとしては決して悪くない、それどころかクメール文化(クメールとはカンボジアを中心とした東南アジアの一民族)の魅力をふんだんにあらわしたファブリック。いざ帰国して飾ってみると、イマイチなのだ。
カンボジアの陽光と仏教徒の荘厳さが支配する中にあってはあれほどの輝きを放っていたのに、湿っぽいここ日本にあっては、明らかに周囲の風景から浮いている。

 

「はあ、アロハシャツを日本で着ると、よほど着こなしに工夫を凝らし、着る場所も選ばないと、どこか浮く。それと同じやなあ」。

 

これは新たな発見であると同時に、我が購買動機のあるクセについても考えさせてくれるきっかけとなった。

 

続く。

写真は、アンコールワットにて。