核(=軸)を持つ人間は、状況に惑わされず、逃げない。

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(注)1月14日に書いた記事。

 

昨日の記事で、「人生ドブ川論」を唱える人と、そんな発想すら浮かばない人との差は、結局はその人を根本面でかたどる「核」なのではないか、と書いた。では、核なるものは、何か?


くだいて述べるなら、その人をその人たらしめる軸(ほら、時間軸とか自分軸とか言うでしょう)。
これが、核だ。


核は、生まれつき備わっているタイプのものもあれば、家庭環境や生育の過程などで生まれるタイプのものもある。
核が性格を作り、性格がその人ならではの言動を呼ぶことを考えれば、自分の核を自覚することは非常に重要だ。


こんな同業者がいた。
「30代前半で離婚したんだけれど、その時、総白髪になって。もう、(離婚に関する一連が)終わるまで、大変な思いをしたから」。
プライバシーがあるので詳細は書けないが、主なる離婚原因は、結婚後に発病したご主人の病気の介護に疲れ果てたことだった。
離婚した後も、ご主人側に慰謝料や子どもの養育費は請求通りには期待出来ない状況で、しかも事実上逃げるように家を出たため、たちまち生活苦。
私と知り合った時は、3種類の仕事を掛け持ちしてしのいでいた。


それでも、彼女は私と話している間中、
「人と会うのが好きだから、接客業が向いている」
「働くことは楽しい」
と、幾度もなく繰り返し(誇張でないことは口ぶりと表情でわかる)、
「ちょっと前に子猫を拾ってきて、子どもたちと一緒に毎日その成長ぶりに目を細めている」
と付け加えた。


私は首を傾げた。
この原始的なあっけらかんさは何なのか?


彼女の話をさらに聞いていくうち、わかった。
彼女は、母親の勤務先である工場で皆に育まれて大きくなり、そこで愛されることと愛することを知ったのだ。


彼女が小学校に上がるや、シングルの母親は某工場に職を得、彼女は学校が終わって帰宅した後、17時に仕事を終えて帰ってくる母親を待つという鍵っ子生活に入った。
そこへ工場主の奥さんの一言が。
「〇〇さん(母親の名前)、子どもさん、あんたが仕事終わるまでうちへ来てうちの子たちと遊んでもらってエエよ。6つや7つの子に1人で留守番させたらアカンで」。


工場主の子どもたちはあけっぴろげで、彼らと過ごすことはとても面白かったそうだ。
「工場主は子沢山だったから、そこへ私が加わっても主人も奥さんも何ともなかったみたいで。工場のおっちゃんやおばちゃん、お兄さんやお姉さんも、暇があったら相手してくれた。すごく幸せな子ども時代を送ったと思う」。


極め付きは、工場主一家と従業員たちが一緒になって行う、年に一度の餅つき。
今もあのワクワク感を忘れないそう。


母親の勤務先である工場の人たちに囲まれて成長した彼女語る、餅つきの「ワクワク」。
彼女の核はまさにこれで、核があるからこそ、彼女は状況のいかんを問わず、ブレないのだ。
彼女も、基本的には、心に決してドブ川を見ない人だと思う。


では、「人生ドブ川論」を唱える人の核とは?


これはわからない。
もしかすると、何らかの理由で核を捨てた結果、深層にドブ川が流れ始めたのかも知れないし。


ともあれ、「わからない」核も尊重したいものだ。
皆、生きているのだから。
さらには、間違いなく、この世はわからないことだらけで、それだから人がそこに居続ける意味があるとも言えるのだから。


写真は、ドブ川とは程遠い鴨川。