手を使わなくなってきている! 脳活性化の面から考える。

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(注)2月9日に書いた記事。

 

2月9日の今日は服の日。2と9で「ふく」と読めるところから、服飾関係の学校協会が制定したと言う。
ちなみに、昨日の2月8日は針供養の日。奇しくもソーイング(お裁縫)に関連のある日が続いたわけだ。


以前に読んだことがある。
「かつて、裁縫は女性の必須だった」。
でしょうねえ。1957年生まれの私が小学生だった頃ですら、普段着は各家庭でお母さんなりお祖母さんなりが仕立てるのが普通だったもの。
セーターなどの毛糸ものも、成長してサイズが合わなくなったらほどいて他の毛糸と合わせ、また編み直してくれたりしてね。


決して当時の女性がマメだったわけではない。
単純に、服屋が、少なくとも私が住む農村にはなかったので、自分たちで作るよりほか仕方なかったのだ。


昨日(2月8日)にアップした振り返り投稿のように、令和の今日では、仮に雑巾一つ縫えなくても、女性も男性も一向に困らない。いくらでも店で買えるし、針と糸の代わりをしてくれる便利な手芸ボンドだってある。身体にぴったりとフィットしたものを望むなら、お金を出して他人にお願いすることも出来るし。


とは言え、先日、夫のコートのボタンつけをしていて、ふと気付いてしまったのだ。
「針を持つのは何年ぶりだろう? 針だけではない。ここ数年、ずんずん手を使わなくなってきている」。


脳を活性化させる意味合いからも考えさせられる問題だ。


写真は亡母が編んでくれたセーター。さまざまな色が入っているのは、他の複数の毛糸ものをほどき、それを組み合わせて編んでくれたから。