現在のツギハギ服には静かな自己主張と哲学がある。

リメイクについての話を続ける。


巨人の星」という人気アニメがあった。当時(1968年〜1973年)の「高度成長真っ只中」であった社会風潮もあり、貧しい境遇に生まれた少年が、努力と才能によって栄えある巨人軍の「星」にまで登りつめる過程をえがいたこの物語は、まさに一世を風靡した感があり、私と同世代の方には毎週の放映を楽しみにしておられた方も多かろう。
そんな方でも、主人公の星飛雄馬が高校受験の面接の際に着ていたツギハギだらけの制服を審査官たちに笑われたシーンを覚えておられる方は、さあ、どのくらいいるのだろう?


ツギハギとは、衣類の破れたり避けたりした部分に別の布切れを当てて縫い合わせ(当て布)、補強したもの。
日本では1960年頃まで、一部の階級をのぞけば衣料はそう簡単に手に入るものではなかったため少ない枚数の服を繰り返し着る必要があり、ツギハギ服は比較的に見られたと聞く。
言わば、貧しさの現れだったのだ。


ところが、世紀が変わった現在。ツギハギ服は、別の意味で、街中を闊歩している。
むしろ、当て布をワンポイントにしたり、あちらこちらをわざと破いてそれぞれに別の当て布を当ててあたかもアートのように装ったり。
そこに、「貧しさ」や「暗さ」はない。
あるのは、伸びやかな発想による「自由」であり、それゆえの「明るさ」。
ツギハギは自己表現の1つとなった。


この変化は、ファッションの発信元が「作る側=デザイナーなりメーカー」から「着る側=消費者」へと移行したことが大きいと思う。


実際に服を着る者が着たい服を考案する。
「お気に入りの服なのに一部分だけ破れてしまい、、、でも、やはりこの服、着たいな」
「人と何もかも同じはイヤ。どこか一つアレンジして個性をアピールしたい」
「収入が頭打ちで服も買えなくなった。でもおしゃれはしたいから、手持ちの服に手を入れて新たに着たい」
こういう層が、創意工夫して、オリジナルなツギハギ服を仕立て、まとう。


いいじゃありませんか。
そこには、生活の知恵と共に、静かな自己主張があり、自己哲学がある。