終活や断捨離は簡単ではない。

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今日も新居への引越しの荷造りに追われている。


3年前も10年前も13年前も18年前もそうだったように、今回も、あふれるモノ、モノ、モノとの闘い。
2回目以降の引越しは老夫婦2人だけの所帯なのに、何でこんなにモノが多いのかしら。
年齢もあり、不要なものは買わないようにしているつもりなのだが、、、。


もっとも、このブログでも繰り返し書いたように、人間は基本的にモノを持つことが好きなイキモノよ。
ぶっちゃけ、「欲深い」のだ。
プラス、その人の性格にもよるけれど、おおむね未来よりは過去を見つめるもの。


となれば、自然とモノはたまっていくわなあ、、、。
友人のお母さんのケースなど、典型的なそれだ。


ご主人、すなわち友人のお父さんと2人で商売を営んでいたお母さん。
戦後の混乱期にご主人の両親から受け継ぎ、2人で懸命に働き、苦難を経て落ち着いた時、時代は昭和30年代半ば(1960年)にさしかかろうとしていた。


この頃より、年に一度か二度、両親は近場ながら一泊、せいぜい二泊のバス旅行を楽しむようになる。
「一番上の兄もまだ小学生だったから、父方の祖母に家に来てもらってね。帰ってきた時には両手いっぱいにお土産。祖母もお土産が楽しみだったんで、私たちの面倒を大喜びでみてくれた」


それが、皮肉なものだ。旅行土産の包み紙や袋が、その後、友人の大きな悩みとなるのだ。


「母の家に掃除に行ったら(お父さんは十数年前に他界)、押し入れから出るわ出るわ、昔の旅行で買った記念品やら食べ物やらの包装紙や箱や袋が。もちろん年を経ているから、変色したりカビくさくなったり湿気を吸ってふくらんだりしている。やのに、取っとく言うてきけへんねん」。


要は、商売も家事も子育てもこなして慌ただしく過ごす日々の中でのたまの小旅行はお母さんにとってはオアシスであり、その輝かしい思い出を、今はみすぼらしくなってしまった土産物の包装紙なり箱なりに投影しているのだ。
お母さんにすれば、包装紙や箱は、セピア色に褪せた過去の写真と同じ価値を持つのである。


はあ、、、。
そりゃ、捨てたくはないわなぁ、、、お母さん。


これだから、断捨離や終活は簡単ではない。
自分なりに基準を設け、いくつもの心理的プロセスを経ないとできないことだ。


写真は、安倍晴明像。
実は、今度の新居、この方が祀られた神社からすぐのところ。つまり、現在の住居から歩いて10分ほどのところにあるのだ。
そんなに近場でも、引越しは引越し。
しんどいわぁ。