ボロは着てても心は錦〜下流でもココロまで下流になってはいけないよ。

連日、いろいろな土地でいろいろな店舗をまわり、いろいろな人に接しているうち、もしかすると、その地の高年層の有り様はそこの地を端的であれ現しているのかも知れないな、と思うようになった。

 


いわゆる「下流老人」と世間一般で定義されるお客さんが多い店と、そうではない店とでは、その店が存在する周辺の景色までが、明らかに違って見える。

 


とは言え、老いて「下流」に位置するかどうかは、ぶっちゃけ「運」もあり、また時の社会政策などの影響もあり、すべてをその人の責任にしてしまうのは、酷というものだよね。

どうにもならないことに出会ってしまうことは、誰にも起こりうるものなのだ。

 


問題は、「下流」に漂流し、その状況で糊口をしのぐ生活をしているうち、ココロまでも「下流」になってしまうこと。

 


うーん? わかるんだけれどね、つい15年ほど前までお金のことで塗炭の苦しみを味わっていた身としては。

よほどの人格者、あるいは何らかの信念を持つ人でない限り、例えば貯金が全くない状態で財布に千円札1枚あるのと万冊が数枚あるのとでは、気持ちは違ってくるのではなくて?

そのことは、引いては、自分ないし自分以外の存在に対する接し方にも微妙な関係をもたらすと推察する。

 


そのことは承知で、敢えて感じるのだ、私が子ども時代に過ごした昭和の時代にも金のない「下流老人」はいたけれど、それまでの人生を生き抜いて来たという、ある意味での「プライド」を持っており、それが所作にも反映されていたと。

昭和時代を代表する歌手の1人、水前寺清子のヒット曲の1つで歌われる「ボロは着てても心は錦」の心意気である。

 


恐らくは光熱費を節約するため、スーパーの大型テレビの前に1日中いすわる老人(警備の人の話では自作の弁当持参。スーパーではお茶すら買わない)。

 


試食品を独り占めしたく、試食皿数品を置いたトレイの前でぐーっと身体を張り、他の人を寄せ付けない老人。

 


何度も何度も試食品を食べに来て、その都度、食べ終わるや試食皿なりカップを分別もせず叩きつける老人。

 


うーん?

 


願わくは、次代を担う世代に、物質的なものとは別次元のナニカを与える老人になりたいものだね。