親や夫、持って生まれたものだけで決まる人生は息苦しい。

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今日、北大阪の某百貨店で、久方ぶりに試食付きの仕事に入る。楽しみ。

 

人間、少なくとも、働けるうちは働こう! 各種支援金があってもね、それのみに頼っていたら、芯からダメになっていく。

 

瀬戸内寂聴氏が現代語訳した「源氏物語」を中途で放り出してから長らく経つが、読書を中断した一因に、ある種のやり切れなさを感じたということがあった。

 

あの頃の女性の幸福の基準は、たった1つ。
「いかに地位ある夫にかまわれ、跡取りの男児を産み、子が然るべき位につくのを見届けるか」。
そして、それを可能にする第一段階にして絶対条件が、実家の家柄がよいこと。
プラス、美貌や書、作歌、箏などの教養があれば、なおのことグッド。
もちろん、「働く」選択はない。
女性が働く、すなわち仕事をするなんて、下流社会だけのことであったのだ。

 

書その他の教養は後天的な努力である程度までカバーできるとしても、家柄や容姿は持って生まれたもの。
親や夫で運命が決まってしまうのと同じくらい、生まれつきの要素「だけ」で左右される人生も息苦しい。

 

働くことは、生活の糧を得る手段であると同時に、自己表現や自己実現の面も持つ。
女であれ、男であれ、働けるってシアワセなことなんだ。

 

写真は、光源氏の実質2度目の正妻、葵の上(Wikipediaより。Public Domain)。